お釈迦さんは、
相手の意識にあわせて、
今、この瞬間、その人に必要な情報を
与えたそうだ。
(しかも結構 常識外れなハチャメチャな、)
知の源、自分、相手、
三位一体を駆け抜ける
インスピレーションはさぞかし
心地良いものだっただろう。
それは結果という 時間を超えているのだから。
信という愛の側面も含まれている。
仕事場では
自分の話は、かたいなあ、と
話しながら思うとき、
たいがい、危機管理的思考の動機バランスがある。
ああいったら、勘違いするかな、といった
形骸化した、知の暴力的な使い方で
相手も自分も束縛しちゃってます。
体系的な知は必要だけど、それは
編纂というかアレンジ、その瞬間スパークされるものの
スパイスのストックみたいなもの。
生かすもコロスも料理はレシピじゃないよ
と料理人がいうもんね。
そのバランス感覚、
海の波のようなダイナミズムの中にあり、
なんだろうなあ。
好きなこと、にはたいがい真逆も含まれてるのが
人間の観念的体験らしい。
それを、客観的におもしろがっている時代に
なってきたのかな。
時 には、拡散の時や集中の時もあるし、
そんな中で
夢中になり、客観的になり、
時間を借りて、時間に愛されて、
統合しながら育まれていると、
なんかそんなこと思う
昨日帰り、新幹線待ちの
リモンチェッロソーダ飲みながら
背中の夕景。