おぉ、京都っぽいなんておもいながら。近所なのに。
木屋町や祇園は5から7分咲きくらいかな。
桜越しに
白川沿いの風流な料亭やBARの窓越しに、
歓談する人達、
着物でお運びに忙しい綺麗なおかあさん、
ひとり桜に見いる
蛭子よしかずさん似のおっちゃんなど、 いらっしゃいます。
見ながら僕は一休さんの時代のように、
「食うて糞して寝て起きて、
あとは死ぬばかりぞ…」
とは思いませんが、w、
こんな風景も嫌いじゃないですね。
人がそれぞれ、全く違う意識のそこから、
ちょっと自由を感じる瞬間。
制限プレイからふと自分を思い出す瞬間が好きなんだと思います。
桜の刹那っていうのか、
不思議ですね。
二度とないその目の前の桜の姿は、
実は永遠の時間を知る自らの
心に刻まれている瞬間を愛でる爽やかさを、
自分の今いる時間意識にダブらせて、
感情を味わってるんでしょうね。
桜ではなく人間関係なら、
束縛や利害ある愛の変形に遊んでることを、
なんとなく思いながら。
ただ桜見て、
起こしてるんではなくて、
起きているところに来た!
っていうクリエイトのひとつの歓び感覚を思い出します。
選択の自由と、自由という無限さと。
数日前の下鴨疎水の枝は。
今年はまだまだ夜寒く、
かわゆく咲き初めてます。
で、全然同調してませんでした、
店の前の岡崎疎水は、、
これからですね。